参考文献








お金以外の基調となる価値あれこれ

【ひとりぼっち?】


でも、いろんな【ひとりぼっち】があるんだよ


ひとりぼっち        工藤直子

「ひとりぼっち」は さびしいね
「ひとりぼっち」は せつないね
あなたも どこかで そう思っているのかしら
だとしたら「ひとりぼっち」が
ふたり いるのね

「ひとりぼっち」は さむいわね
「ひとりぼっち」は なきたいね
みんなも どこかで そう思っているのかしら
だとしたら「ひとりぼっち」は
いっぱい いるのね

そう思ったら
なんだか にぎやかな「ひとりぼっち」
そう思ったら
なんだか あたたかい「ひとりぼっち」

ナキワラ 
交流イベント等を定期的に催す中学生・高校生が集まり構成されている、ボランティア団体(NPO法人)




【多彩な個性が共存する教育を】

 国籍や宗教、経済的な格差や障害の有無に関わらず全ての子どもが共に学ぶ「インクルーシブ教育」という考え方がある。
 その精神に照らせば、私は、成績が優秀な生徒ばかりを集めて行う教育は少し違うと考えている。(中略)
 もちろん、中学、高校、大学と進むにつれ、学力別、将来の進路別のすみ分けが必要になってくる。最近は、小学校から学力別クラスの導入を希望する保護者が多いと聞くが、小学生の間くらい、できる子もできない子も共に学ぶことが望ましいと思う。
 学校はできることを増やす場であると同時に、頑張ってもできないことがあることを知る所だ。「できないという個性」もある。
(2023/11/18 毎日新聞 オピニオン みんなの広場 高校教諭 前川 誠 )



【弱さの思想】

 

<弱さの思想  たそがれを抱きしめる > 高橋源一郎+辻信一 大月書店

フィールドワーク その7 きのくに子どもの村学園

(前略) 高橋:義務教育っていうのは、軍隊と同時に生まれました。農民が人口の大半だった頃、産業革命が起こって工場労働者を作らなきゃいけないという必要でつくったものだからです。工場労働者は時間通りに働かなければならない。農民はそうではないでしょう?朝日が昇って陽が沈むまで働くとか、そういう自然時間ではなくて、社会時間に生きる工場労働者を作るのに学校教育が役立った。
 これには異論もあるけど、ぼくはその側面が強いと思います。社会が管理社会になってもぼくたちが鈍感なのは、学校教育を受けているからです。管理されることに感覚が鈍くなっている。さっきも言ったように、意味のないことを忍耐強く、逆らわないで素早くこなすことがすばらしいという考えが、ぼくたちには植えつけられている。見張られているからやるのではなくて、僕たち自身が「無意味さに耐えることに価値がある」と思いこまされるのが管理教育の原点なんです。それを受け入れたときに、管理社会で生きられるある種の感性ができるんだと思う。一つひとつ問題をあげて、「それはおかしい」「管理しすぎだ」と声は上がってくるけど、「なぜ学校が管理されているのか」とは聞かないでしょう。そこまで言うと、この管理社会の中で生きていかれないから。
辻:「きのくに」の教育と「弱さ」の関連についてはついてはどうでしょう。
高橋:中心に子どもを置いている、ということだと思います。先生ではない。このことは、子どもの多様性を確保するためでもあるんです。子どもの多様性を中心において、学校教育を作り上げていること。
 親は管理教育を受けてきたから、「たしかにすばらしい教育理念だけど、「学力は?」とか、「卒業したらどうなりますか?」とか、心配して抵抗しますけどね。これが障害児や老人、ホスピスでは、親も極限状態に立つから気づきの可能性が大きいんですけど、普通の親は管理社会にどっぷりつかっている、なかなか変われないんだな(笑い)。

おわりに - より

(前略)  この本の中でも触れられているように、わたしは、ふたりの子どもたちを、いまの社会では支配的な教育理念とは異なった理念を持つ小学校に送った。ふたりは元気に、その学校で学んでいる。

 最初のうち、特に次男は、「ふつうではない」学校にとまどったようだった。慣れない寮生活をおくりながら、彼は、しょっちゅう、(寮の公衆)電話をかけてきた。そして、いつも、最初はこういうのだった。
 「なにをしていいのかわからない」

 以前、わたしは、よく子どもたちの通う公立小学校に出かけていって、授業の様子を「参観」させてもらった。

 膨大なカリキュラムをこなすために、それは「適切に」区切られた一つ一つの断片となって、子どもたちの前を流れていった。よく理解できている子どもも、それほど理解できているわけでもない子どもも、それから、ほとんど理解できてはいない子どもも、等しく、その前を様々な「教材」や「知識」が、ベルトコンベアーの上を流れるように、悠然と流れていくのだった。子どもたちは、とても忙しそうに見えた。やるべきことはたくさんあるのだ。覚えるべきこと、テスト、宿題、等々。それが、ほんとうに必要かどうかはわからないにしても。
 そこで、子どもたちは、社会の最初(ではないかもしれないが)の「洗礼」を受けるのである。自分たちの前に流れてくるものを、疑うことなく受け入れることを学ぶのだ。それはまた、彼らにとって、「競争」というものの始まりでもあるのだった。
 少なくとも、子どもたちには、「なにをするべきなのか」はわかっていた。
 次男の「なにをしていいのかわからない」ということばにわたしの胸は痛んだ。
 社会は、子どもたちを「隷従」させようとしているのかもしれない。けれども、その代償として、「やるべきこと」だけは教えてくれるのである。
 自由の風は冷たく厳しい。社会が与えてくれる「保護」の衣を脱ぎ捨てた時、わたしたちは、初めて、自分がそんなにも弱かったことを思い知る。だが、そこから始めるしかないのだ。ほんとうのことを知ってしまった以上、もう元に戻ることはできないのだから。

   二〇一四年一月二十一日                    高橋源一郎


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ここからさきは、ちょっと長いです。



[本の表紙 モモ絵]

ミヒャエル・エンデの「モモ」という本があります。不思議な少女モモの話です。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、しあわせな気もちになります。でも「時間泥棒」の灰色の男たちの魔の手が忍び寄ります。モモの話は、 空中教会の牧師たちを思い出させます。


【空中教会の牧師たち】

<空中教会の牧師たち> 飯沢匡(いいざわ・ただす 劇作家 1909年 - 1994年) (1980.12.21 毎日新聞 文化欄)。

私は先日から空中教会といったものを考えていた。これは巨大な教会でどんな歴史的に有名なカテドラルも追つけない。
むしろ世界中にまたがって根を張っていてそこに参加する信者は億単位の人数なのである。
この教会は、自宅の茶の間にいても参加出来るから誰でもその意志さえあれば十分なのである。
従来の教会は親の指導とか地域社会の強制があるが、空中教会は全く自発的な信者によって成立している。
そこでは有力な牧師が御説教する。信者たちは、その御説教に陶酔して神がかり状態になるものもいるのは従来の教会の作用と余り懸隔はない。
先日、ジョン・レノンという牧師が急死したが レノン師の御説教はますます不滅のものとなったようである。
こういって来るとみなさんは私の空中教会といってるのはエレクトロニクスによる情報社会のことだと判って下さるであろう。
ビートルズ(虫けら)という名で卑下して出て来た若者たちは次第に巨大な教会を形づくって行った。レノンが死んで彼の生涯が振り返えられるとレノンの反戦運動が大きく報じられた。
ビートルズにサーの称号が贈られ、勲章を女王の手から与えられた時、憤然として勲章を返した老人が居たというニュースを読んだ時、英国らしいとその守旧ぶりに呆れたものだが、そのレノンがべトナム戦争に反対しない政府に業を煮やし、その勲章を返したことは私は今度はじめて知った。
レノンはビートルズのヒット曲の歌詞を総て書いている。歌詞とは志を述べることである。
日本の演歌は「雨が降ったり」、「霧が港町の灯りをぼやかしたり」する花鳥風月の伝統を保っていた。レノンの「レット・イット・ビー」、 直訳すれば「それが在るようさせて置け」。「ほっておけ」とも訳せるし「在るがままに」ともいえよう。ともあれ、この題名からして一つの提唱であり自己主張であ り広くいえば抗議である。つまり一つの思想を強く主張しているのである。
私が御説教という所以である。だから、レノンは哲学者であったのだ。
この新しい哲学者は音楽という媒体を通じて信者に語りかけたのであった。
私は曽つてインドに旅して、ヒンズー教の寺院でハーモニュウムという膝の上へ乗るような小型オルガンを奏しながら説教してる賢者の姿を見たことがある。信者は魅せられたように聞き入っていた。そして私は中世から徳川初期に活躍した説教節の創始者のことを思いだした。この説教節から幾変遷を経て浄瑠璃や浪花節という日本の大衆芸能が生れた歴史のことも思い出したのである。

ビートルズの出現からアメリカではフォークソング(民謡)の再評価が若者の間に生じ、それがプロテスト・ソング(抗議の歌)にまで発展した。抗議したのは主としてべトナムへの政府の強圧であり、徴兵される若者の社会の偏差であった。
ビートルズの異様な風体に既成の大人たちは眉をひそめたが、山高帽を冠り黒のモーニングに晴天でも雨傘を持って歩くロンドンの紳士たちへの反発であったことは歴然としている。
日本では「風俗劇、風俗小説」といえば蔑称であるが、「風俗は思想なり」という考え方は、まだ 定着していない。
戦後、殊に高度成長の日本は階層の格差の幅が狭くなり九十%以上の人が自分は中流に属すると感じてるのだから、英国やアメリカのような階層による差別感はない。ビートルズのようなリバプールの港町の底辺からはい上ってきた若者の強い卑屈感や闘争心と比べると日本の若者は希薄なのである。だから、日本ではファッションとしてビートルズを受け入れる傾向が強い。
レノンの詩ーということは思想ーに重点のかかった歌よりマッカートニイが作曲した甘美な旋律に日本の若者が惹かれたのは、そこいらの消息を伝えるものであろう。
それがファッションであろうとも、若者に与えた影響は大なのである。
人は教育は文部省の方針によって定まると思っているが、制度はそうにしても、本当に若者の心を動かしているのは空中教会の牧師の御説教ではないだろうか。
先日、両親を金属バットで撲殺した二十歳の若者がいた。人々は彼の生活背景を、いろいろに探査して、この虐行為の因果関係をつきとめようとしているが、私にいわせると、あのような条件の下で追いつめられている若者はあり余るほど沢山にいる。しかし普通の若者は殺人に走らない。ちゃんと理性で衝動に歯どめを加えている。なのになぜ彼の場合だけ歯どめが利かなかったか、これは解明することは出来まい。私にいわせれば酒乱である。
同じように酒を飲んでいても何人かいる人間の中で一人だけが酒乱になる。これは体質的なものである。彼の犯行も体質的なものであることを理解してやらねばならぬ。体質的というと運命論になり勝ちであるが今は脳の働きや神経の伝達の作用が化学的(ケミカル)――つまり化合物という物質の働きによって変化することが解明されて来ている。異常な脳の働きは通常人と異る物質の変化であろう。物質の欠落といってもよい。
これほどに生化学が発達して物質を配合すること、遺伝子の組かえを行い新しい生物を生むことまで出来るのであるから、異常な神経を化学物質つまり薬品の力で左右することは、可能であろう。
犯罪者を道徳的に責めても余り意味はないのではないか。むしろ、そのような理性の歯どめを超えた衝動的行動をする頭脳を改造するように考えるべきなのではないか。

どうして、今まで、このような 惨事件が起らずにこのごろにな ってるのかという疑問が生じるが、これも空中教会の影響のようである。この空中教会はレノン牧師とは無関係で、その名をアニメ教ともいう。ここでは正義の味方と称する英雄が自分に都合の悪い人物や怪物を、まことに簡単に排除するのである。その時、猛烈な暴力を伴うが正義の名で免罪されるのである。
これを幼児時代から毎日二、三時間激烈な音響と共に頭にたたき込むのがアニメ空中教会である。 この牧師は、まことに御粗末な頭脳の持主たちで、人間の何たるかの御研究も決して十分でもなく、人間の持っている苦悩など少しもお持ち合せがないようだ。
衝撃さえあれば商売は成り立つと、毒々しく仕立てて子供の心を刺激しているのである。自分の都合で邪魔ものは何でも排除してしまえば、それでよしという論理が感覚的に植え込まれてしまうのである。
この幼児期の教育が大人になってから、どこかで爆発することがあれば通常人には考えられぬ惨虐になるのは当然であろう。
生命とか死とかが、どのように深刻なものか考える時間も与えずに画面で常に多量殺人が続発するのであってみれば、中学生が先生に向かって暴力を揮うなどはまだいくらか理性に歯止めがかかっていると見るべきかも知れない。そのうちに教師にガソリンをぶっかけて焼き殺すなんてことを平然とやる中学生が出て来ることであろう。
人々は教育の場で行ったことは教育の場だけの範囲で考えようとするが、大切な空中教会のことを忘れている。
TVの前にいる一人の子供や青年を見ていると、たった一人に見えるが実は数千万人の参集なのである。教会で大ミサがとり行われていて牧師の号令を待っているのである。レノンの場合はベトナム戦争の歯どめをなしたが、アニメの場合はむしろ暴力を誘発し戦争の準備をしているといえるだろう。
(いいざわ・ただす=劇作家)

いまは、TVはスマホ、アニメはゲームと言いかえた方がいいかもしれませんね。

BBC News 『なぜSNSのアルゴリズムは10代の少年に暴力的なコンテンツを見せるのか』 へリンクします。